本稿では下記の考察を通じて、グローバルに事業展開する企業の方々に治安リスクの理解を深めていただきたいと思います。
2月に発生したクーデターおよびその後の大規模デモと警察・軍部との衝突により、ミャンマーの治安リスクは極めて危険な状況になっています。日本政府からも在留邦人に対して帰国を促す注意喚起が発せられています。
このような状況でミャンマーに進出している日本企業はどのような対応を迫られているでしょうか?
ミャンマーに進出している日本企業は400社以上ありますが、多くの企業で工場の操業停止や業務の制限が行われています。
以下は報道されている一例ですが、氷山の一角であり実態はかなりの数の企業が同様の対応を迫られているものと推察できます。
現地ではデモに参加していなくともデモが行われる地域を歩いているだけで警察に捕まる可能性があるため、通勤経路にデモの予定地がある場合には通勤を自粛する従業員が多いとのことです。そのため、企業としては従業員が確保できず操業できないケースも発生しているようです。デモと警察との衝突による死者は日に日に増大しており、現地の状況は悪化の一途をたどっています。
直近では、ファーストリテイリングの協力工場の2か所で火災が発生し、GUの商品供給に支障をきたしているとの報道もあります。
本稿執筆時点では、幸いにもデモと警察・軍部の衝突に巻き込まれて直接の被害を被った日本企業はありませんが、もしそういった事態が発生したらどのような損害が発生するでしょうか?
ミャンマーに限らず海外拠点を有している多くの日本企業では、従業員の身の安全を図るための措置は事前に準備されているようです。たとえば有事の際の避難マニュアルを策定しているとか、緊急避難の手配のために専門の業者と契約しているとか、様々な対応を取られていること思います。
しかしながら、治安リスクによる物的損害や事業損失についても、しっかり検討されている企業は少数派ではないでしょうか?
治安リスクは戦争・内乱・革命・クーデター・暴動・テロなどめったに起きないが、起きたら広域かつ甚大な損害になるというリスクそのものの特殊性もありますが、起きた時の企業が被る損害についても通常の火災事故とは異なりますので注意が必要です。
自社の工場が暴動に巻き込まれて破壊されたら、当然被る損害は工場建物の再建築費用や機械の修理代があります。そのほかに重要な損害が事業中断による損失です。工場再建中は稼働できないのでその間の収益減少と稼働していない時にも発生する固定費が大きな損害になります。ここまでは通常の火災事故と同じです。
火災事故と異なる治安リスクの特殊性とは、自社の施設に損害がなくとも事業中断が起こり得るという点です。
たとえば、暴動によって工場へ通じる道路が破壊され、自社施設には損害がないものの原料の納入ができなくなったら、工場は稼働できずに事業中断損害は発生します。
あるいは、暴動により近くの建物が破壊され、当局によって一帯が立ち入り禁止となったら、従業員も出社できず事業中断損害が発生します。
上記の例はいずれも自社施設には損害がないものの事業中断が発生してしまう事例であり、治安リスクの場合には往々にして起こりうる事象です。
冒頭にご紹介した報道されているミャンマー進出企業の操業停止は自主的なものなので損失もコントロール可能ですが、道路の通行止めや当局による封鎖は自社ではコントロールできない損害なのでより一層の注意が必要です。
では、上記に上げたような事業停止による損害や直接被害にあった工場や機械設備の損害については、どんな保険からどんな補償を受けられるでしょうか?
そもそも、ミャンマーに進出している日本企業がデモと警察や軍部との衝突に巻き込まれて工場が破壊されてしまったら、現地で加入している火災保険で補償されるのでしょうか?
まず、注意しなければならない点は、一般的な財物保険(いわゆる火災保険)ではクーデターや暴動による損害は補償の対象となりません。
戦争・内乱・革命・クーデターは免責事項として財物保険では保険金の支払い対象外となっています。暴動についても政治的・宗教的背景を伴う暴動は免責となっていることがほとんどです。
その理由は、これらの治安リスクは広域かつ甚大な損害につながるため、保険会社がリスク排除しているからです。
ミャンマーで加入している現地の財物保険契約でも、日本で契約しているグローバルプログラムのマスターポリシーでも、おそらく支払い対象外とされています。
このような治安リスクを補償するためには、一般の財物保険とは別に『治安リスク保険(Political Violence Insurance)』に加入することが必要なのです。
そうは言っても「治安リスク保険なんて聞いたことがない。」と思われる方がほとんどだと思います。それは日本の保険会社が『治安リスク保険』を販売していないからであり、日本企業の方々が『治安リスク保険』をご存じないのも当然なのです。
一方、欧米では『治安リスク保険』はすでに普及しており、多くのグローバル企業が全世界の拠点を包括的に補償する保険プログラムを購入しています。ミャンマーのように危ない地域だけ保険をかけるということは、なかなか保険会社も引き受けが難しいので、全世界の拠点を包括的に補償するグローバルプログラムを構築することになります。
それでは、日本企業は『治安リスク保険』の購入ができないのでしょうか?
答えは、「できます」です。
日本の保険会社が『治安リスク保険』の販売を行っていないのは、治安リスクが巨額の損害につながり自社では持ちこたえきれないからです。台風や地震など広域損害につながるようなリスクに限らず、保険会社はほとんどの種類の保険において巨額損害に備えて再保険を手配しています。支払準備金の取り崩しと再保険からの回収によって、2018年の台風21号や2019年の台風19号など大きな損害が発生した年でも、保険会社は赤字にならずに済んでいるのです。
ところが『治安リスク保険』のような特殊なリスクでかつ巨額損害が発生する保険は専門的ノウハウが必要であり再保険の引き受け手も限られているので、日本の保険会社は再保険手配をしていないのです。すなわち、再保険手配ができないから日本の保険会社は『治安リスク保険』の販売をしていないのです。
逆を言えば、日本の保険会社も再保険手配ができれば日本企業に『治安リスク保険』の販売ができることになります。
まだ少数派ではありますが、実際にこういった手法により『治安リスク保険』をすでに購入している日本企業もございます。
再保険の引き受け手はほとんどが海外の再保険会社であり、多くの再保険会社が集積するロンドン、バミューダ、シンガポールなどで再保険マーケットが組成されています。
ウイリス・タワーズワトソンはこれらの再保険マーケットに精通しており、日本企業のために再保険手配を行って『治安リスク保険』をご案内しています。
現在ミャンマーに進出している企業にとっては『治安リスク保険』は喫緊の課題かと思います。本稿執筆時点ではミャンマー所在リスクも再保険手配は可能ですし、実際にウイリス・タワーズワトソンはクーデター後にもミャンマー所在リスクの新規保険手配を行っています。ただし、情勢は刻一刻と変化しておりますので、検討される場合には早めに始められることをお勧めします。
一方、ミャンマーには拠点はないもののグローバルに事業を展開している企業にとっては、第2、第3のミャンマーが世界中のどこで発生するか分からない状況であることを十分に理解する必要があると思います。
ミャンマーのクーデターは総選挙により国軍派が壊滅的な敗北を喫し、選挙に不正があったとして大勝したNLD幹部を拘束したことが直接の理由と言われています。しかし、なぜ国軍派が大敗したのかと言えば、その背景にはコロナによる経済停滞と行動制限が有権者にさらなる民主的な政治を求めさせ、国軍の影響力を排除したいという欲求が選挙結果に現れたものとも言われています。
コロナの影響により、ミャンマーだけでなく世界中の治安リスクが悪化しています。経済停滞による生活困窮者の増加と行動制限による社会不安の増大がマグマのように蓄積し、何かのきっかけで噴火してしまう可能性が世界のあらゆるところで高まっているのです。
いくつかの例をあげてみましょう。
これらはどれも何かのきっかけで噴火してしまう火種です。そして世界中に同じような火種がくすぶっているのです。
グローバルに事業を展開する企業は世界のどこで発生するかわからない治安リスクに対しても対応できるよう準備をしておく必要があります。
『治安リスク保険』はその準備の一つと言えるでしょう。
自社の進出している地域の治安リスクを検証し、そのリスクを保有するのか?移転するのか?しっかりとした社内議論を行うことを強くお勧めします。
ウイリス・タワーズワトソンでは2021年5月19日に『治安リスク保険』のセミナーを開催いたします。
参加された方々がしっかりとした社内議論を行うための参考になるようなセミナー内容とする予定です。ご興味のある方はぜひご参加ください。
Chubb損害保険株式会社 執行役員企業営業本部長、チューリッヒ保険会社 企業保険事業本部長を経て、2019年にWTWに入社し、現職を務める。
損害保険業界で40年の経験を持ち、著書に「国際企業保険入門(中央経済社)」がある。「2021年10月 東洋経済 生損保特集号」への寄稿など、各種メディアによる取材記事も多数。