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特集、論稿、出版物 | 人事コンサルティング ニュースレター

エンプロイー・エクスペリエンスは経営をどう変えるか

執筆者 平本 宏幸 | 2022年6月14日

人的資本の重要性はますます高まっており、価値創造を大きく左右する要素となっています。そのなかで、人的資本投資の効果は、その受け手である従業員のポジティブな行動変容を促せるかにかかっています。そのカギとなるコンセプト、エンプロイー・エクスペリエンス(EX:従業員体験)について、企業変革の観点から考察します。
Employee Engagement |Work Transformation|Employee Experience|Ukupne nagrade
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人的資本への投資の重要性

10年以上前、最初にエンプロイー・エクスペリエンス(EX: 従業員体験)という概念が示された*1とき、まだ企業にとってそれがどれだけ重要なものになるかは明確ではなかった。スティーブ・ジョブズがユーザー・エクスペリエンスの重要性にいち早く気づき、それをiphoneという具体的なプロダクトとして結実させたとき、多くの企業にとって社員のエクスペリエンスが価値創造の重要な要素となることは、現実的なものとしては受け入れられなかったであろう。顧客の体験を素晴らしいものにすることの意義と比べて、社員の体験を重視することは、十分な余力ある企業のみが意識しうるテーマのようにも捉えられた。

時は移り、今やサスティナビリティが永続的な企業の競争優位の源泉となった。パーパスと明確に結びついた長期的な価値創造が、ESGにおけるSの中心的な要素でありかつ重要なステークホルダーである人的資本、つまり社員のポテンシャルと活力を引き出すことによって実現されることは、もはや論を俟たない。社員にポジティブな変化をもたらす投資のあり方をどのように構想し長期的な時間軸で取り組むかが、具体的な経営の課題となり、解決策が求められるようになってきた。

人事の領域においては、社員がポジティブで充実し、活力をもって取り組める状態か否かという、エンゲージメントという概念がいち早く広まっていた。今日において、エンゲージメントは人的資本の状態を見極めるための重要な指標として定着している。社員が持続的に高いエンゲージメントを持つことと企業の業績とが正の相関を持つことは、私たちのデータによっても明らかになっている。エンゲージメントを測定し、そのドライバーとなる要因を見極め、そこに確実に手を打つことは、人的資本への投資において重要な出発点となる。

変化をもたらすエンプロイー・エクスペリエンスの視点

エンゲージメントを高めるためには、人の持つ感情や認識などのソフトな要素が極めて重要となる。企業や仕事の目的に共感して情熱を傾けられるか、知的な興味・関心や達成感を得ることで更なる成果への意欲を高められるか、リーダーを信頼し、安心できる環境にいることで手が届くかわからないようなチャレンジをすることができるか、自分の潜在的な力が発揮できているという成長実感、将来が拓かれるような高揚感が感じられるか。このような社員の心に響く体験をどれだけ感じさせ、認識と行動に変化をもたらすことができるかどうかが、持続的なエンゲージメントの向上に大きな影響を及ぼしうる。

エンゲージメントを高めるべく様々な人事施策を講じること自体に一定の効果は見込まれる。しかし、このような実質的な社員の認識の変化をもたらすためには、ハード面での施策を変えるだけでは十分ではない。ここに、エンプロイー・エクスペリエンス、つまり社員が得るポジティブな体験の持つ効果を考慮する意味がある。例えば以下のような典型的な人事施策の手法においても、エンプロイー・エクスペリエンスの視点を持ち込むことで、組織の変革において大きな優位性をもたらすことができる。

ジョブ型人事制度 

職務内容を明確に定義し、その価値を測ることで差異を明確にするとともに、その職責の違いに応じた処遇を提供することは、長期的な基盤として重要な仕組みである。しかし、単に処遇差をつけ、コストを削減するためだけの施策だと受け止められれば、長期的な社員の活力をそぐ可能性がある。また、求める職務やスキルを定めたところで、それにマッチする人材を見極め、登用・育成できなければ、制度そのものが形骸化しかねない。定められた職務が、社員にとって意義が感じられるものになっているか、更なる挑戦への意欲を駆り立てられるものになっているか、将来のキャリアにつながるものと感じられているかを視野に入れてその運用やメッセージの伝達がなされているかは、重要な差別化の要因となる。

パフォーマンスマネジメント

OKRやOne-on-oneなどのような昨今のパフォーマンスマネジメントの潮流となっている施策は、EXの視点が強く意識されたものである。頻繁なフィードバックを通じてポジティブな感情と達成感を感じさせ、更なる成長への意欲を喚起する。目指す長期的なビジョンに即した目標と具体的なマイルストーンとしての結果指標とを切り分け、高い目標にまい進させ続けながら短期的な結果を同時に意識させる。このような受け手の感情・認知の変化を織り込みながら制度を設計・運用できれば、組織への大きなインパクトをもたらしうる。制度が型通りに運営されているか否かではなく、前向きなフィードバックカルチャーが生まれているかに着目すべきである。

報酬制度

職務ごとの市場水準を適切に把握し、その職責に見合った報酬を提供することは、フェアであるという認識や一定の納得感をもたらすだろう。しかし、それだけでは「自分は本当に評価されているのか、期待や貢献に見合った報酬が支払われているのか」といった個人に焦点を当てた問いに答えられない。一般的な職務の内容から想定される市場相当の報酬水準と、特定の個人に任される役割や期待、あるいは価値創造への貢献度合いを織り込んだ報酬水準は、その持つ意味合いが全く異なる。仕組みを整えるだけではなく、報酬という極めて繊細なテーマについて、一人一人の職務の特性や期待水準、ポテンシャルを考慮して設定がなされ、かつ個人の感情に注意を向けたコミュニケーションを通じて運用がなされているかどうかが、変革の効果を左右する。

タレントマネジメント

タレントマネジメント、特にリーダー開発という観点では、戦略や実行面でのリーダーシップといった業績達成に必要な能力開発のみならず、重要なステークホルダーである社員からのビジネスリーダーに対する信頼の向上や、組織全体の意欲を下げるような不適切な言動がもたらすリスクを減らしていくことの重要性がますます高まっている。昨今、「心理的安全性」が重要視されているように、リーダーシップの有効性は、財務的な業績のみならず、組織や人材の良好な状態を維持・向上できるかという非財務的、心理的な側面を抜きには語れなくなった。例えば心理検査・アセスメントや360度評価を通じたリーダーシップリスクの特定や多様な他者に対する受容性の測定、リーダーシップスタイルと組織のエンゲージメントとの関連性の把握 は、今後のビジネスリーダーとしての適性を見極めるうえで、有効な手法となる。

ダイバーシティ&インクルージョン(あるいはDEI: Diversity, Equity and Inclusion)

女性管理職比率に代表されるダイバーシティ&インクルージョンの目標となる指標は、企業のDEIの進捗を示すシンプルでわかりやすいものである。しかし、そうした指標の達成もさることながら、実質的に重要になるのは、属性等にとらわれることなく、フェアに機会が与えられ、オープンに意見に耳が傾けられ、個々人が持つ多様なスキルや能力が十分に生かされるような文化の醸成にある。例えばこのようなDEIの文化の浸透度や発展度合いを、社員の認識から測定し、インデックスとしてモニタリングする方法も取りうる。形式ではなく実質を追い求めていくためにも、客観的なデータの把握は改善機会の特定につながるきっかけとなりうる。

変革への道筋をどう描くか

様々な組織変革の施策にエンプロイー・エクスペリエンスの視点を取り入れることは、人的資本への投資の有効性を高める可能性がある。しかし、組織の文化や人の感情は極めて複雑かつ多様であり、相互に作用して変化するダイナミックなものであるため、機械的に制度やシステムを変えるだけでは適したアプローチとならない。目の前の現実を事実として捉えて、確実かつ柔軟に対処していくための対応が求められる。

そのためには、以下のようなステップが有効である。

  • データからインサイトを得る
  • 人的資本の戦略を機動的に構築・実行する
  • 行動変容を促す
  • 効果的なナラティブでステークホルダーを巻き込む
データからインサイトを得る

刻々と変化し、捉えることが難しい社員のエンゲージメント、そしてそれを左右するエンプロイー・エクスペリエンスを測るためには、社員の認識をデータとして取得することが有効である。一般的なエンゲージメントサーベイに加えて、頻繁にデータをとるためのパルスサーベイや定性的な社員の声を集めるためのバーチャル環境でのフォーカスグループなどのテクノロジーは、十分に活用可能な水準に到達している。これらを効果的に組み合わせてデータを取得し、様々な組織や属性による違いを分析すること、経年での定点観測を通じて変化を察知することにより、組織の状態を的確に把握するための重要なインサイトが得られる。特に、様々なベンチマークとの対比によって、自社内の相対的な課題のみならず、絶対的な水準の違いから、組織変革への重要な示唆が得られることも多い。

人的資本の戦略を機動的に構築・実行する

データの分析から得られた示唆に対して、人的資本に関わる様々な施策・取り組みを合わせてレビューすることによって、長期的なビジョンの実現のために何が有効なのか、どこに改善機会があるかを特定することにつながる。新たな制度や施策の変更は、まだ望ましいカルチャーの醸成には結び付いていないかもしれない。あるいは、特定の組織に見られる高いエンゲージメントは、個々のリーダーの個人的な努力によって保たれている再現性のない脆弱な状態となっているおそれもある。企業のパーパスに根差した人的資本の戦略の実効性を、エンゲージメントサーベイ等で得られるデータを基に機動的に把握し、施策の見直しにつなげていくことが重要となる。このような人的資本の戦略や課題解決の進捗を、取締役会のアジェンダとして取り上げて適切に監督していくことも、投資家の期待に対して説明責任を果たしていくために有効となるだろう。

行動変容を促す

人的資本に関する戦略や施策の立案・実行は、エンプロイー・エクスペリエンス視点からの実質的な行動変容につなげられるかが成功を左右する。一見すると小さな介入やコミュニケーションの工夫をすることによって、ポジティブな効果が得られる場合もある。例えば、目標設定のリマインダーに、単純な締め切りの通知をするだけではなく、長期戦略や重点課題とのつながりを意識させる、社員にポジティブな期待を与えるコミュニケーションのヒントを与える、読むべきリソースにアクセスしやすいようにするなど、本来促したい行動を意識させるようなメッセージを伝えることが、一人一人の認識と行動に小さな変化をもたらす可能性がある。あるいは、社員のセグメントの違いに応じて同じメッセージでも違う表現でカスタマイズして示すことによって、一人一人の受け止め方や理解度に違いが生じるかもしれない。行動心理学やコミュニケーションに関する専門的な知見を活かすことでこのような行動変容のための工夫を随所に織り込み、効果的なコミュニケーションを通じて実施していくことが、施策の実質的な効果を高める。

効果的なナラティブでステークホルダーを巻き込む

このような、人的資本の状態の測定や戦略、施策の状況について、パーパスや長期の価値創造との結びつきを明らかにしながら、受け手の関心を引きつけ、共感や親近感を生むようなナラティブをつくりあげ、適切に開示していくことが重要となる。これは、実施している取り組みを投資家に説明するのみならず、顧客や社員も含めたステークホルダーから、そうしたストーリーに対して賛同や共感を得ることによって、取り組みを更に推し進めるための原動力としていくことに意義がある。目標としている人的資本のアウトカムは何か、それにつながる重要なKPIはどのようなものか、そのためにどのような施策を実行しているのか。そして、それらはどのような社員の認識の変化、文化の変容をもたらしてきたのか、それがパーパスと戦略の実現にどう結び付いているのか。ESGへの期待が高まるなかで、最低限の開示や型通りの説明に留まらず、こうした独自のストーリーをもって説明できることは、ステークホルダー間の共通認識を醸成し、価値創造に向けた競争優位性を示すことにつながるだろう。


出典

1 Abhari, K., Saad, N. M., & Haron, M. S. (2008). Enhancing Service Experience through Understanding: Employee Experience Management. International Seminar on Optimizing Business Research and Information Technology. Jakarta

執筆者


シニアディレクター
Employee Experience(EX) 統括

入社以来、人・組織に関する課題解決を通じた変革支援のコンサルティングに一貫して従事している。人・組織に関するソフトな課題を主として扱う部門を統括。近年は特に、経営者の後継者計画、指名委員会運用支援、リーダー開発・エグゼクティブアセスメント、タレントマネジメントの戦略構築・実行支援において豊富なコンサルティング経験を有する。


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