世界的インフレを背景に米国、欧米の中央銀行が金利の引き上げを行ってきた。新型コロナウイルス感染拡大に起因する世界的な経済停滞からの回復への期待と、地政学的な不安増大とリセッションへの突入の懸念が交錯する中、企業年金の運用環境も不透明感が漂う。昨今の急激な円安や足元の金利の上昇は年金資産運用の担当者に今後の運用戦略の再考を促している。実際、当社クライアントの年金分野における相談に関していえば、昨年は確定給付企業年金のリスク分析、政策資産構成の見直しに関する相談の増加が鮮明であった。
コロナ禍前の好調な株式市場を受け積立水準が大きく回復した企業年金があった一方、ウクライナ危機以降の株式市場の低迷を受け、非継続基準の財政検証に抵触し、特例掛金の拠出の必要性に迫られる企業もあった。金融緩和を継続する日本でも足元の金利は上昇基調であったが、最低積立基準額の計算に使用する予定率は令和4年度で0.66%であり、前年度の0.63%に続き過去最低水準に留まっている。これは非継続基準の予定利率は「過去5年間の30年国債利回りを勘案して厚生労働大臣が定める率」とされていること起因するが、金利上昇が予定利率の上昇を通じて債務評価の引き下げに寄与するまでには一定の時間を要することを意味する。これに過去に類をみない急速な円安も加わり、今後の資産運用の方向性に不安を覚える企業年金担当者も多かっただろう。不安定な資産環境を契機に今後の対策の検討を進めていく中、関係者の利害の不一致が浮き彫りになる事例もあった。
企業年金は福利厚生制度の重要な要素であり、受給権の確保は最も重要な視点の一つである。同時にあらゆる変更は債務やキャッシュフローに大きな影響を与えるため、企業の財務会計の視点も欠かせない。従って財務的な側面や人事的な側面など多角的な視点によるマネジメントが肝要であり、企業・基金においても程度の差はあれ、部門横断的なマネジメント体制が敷かれている。企業年金基金は確定給付企業年金の運営を担うガバナンス機構そのものであるし、規約型の確定給付年金制度においても一定規模以上の制度については資産運用委員会を通じて資産運用をマネジメントすることが要件になっている。企業の中には、資産運用に留まらず退職給付制度全般(確定拠出年金を含む)を統括する任意のガバナンス機構として年金委員会を設置する場合もある。企業年金の運営上の課題が制度設計、企業会計、年金財政(掛金政策)、資産運用など多岐に渡ること踏まえると、年金委員会は適切な運営を行うために望ましいガバナンス機構といえよう。年金資産運用の設置義務を超え、これらのより包括的なガバナンス機構を積極的に活用する企業も散見される。これはプランスポンサーとしての受託者責任の全うを超えて、企業ガバナンス向上の機運や退職給付制度運営の効率化、価値の最大化への意思が反映されているものと思われる。
企業年金の運営においては、企業の人事、財務、加入者、株主など多様なステークホルダーが存在する。企業年金のプランスポンサーはこれら多様なステークホルダーからの期待のバランスを取りながら運営を行う必要がある。確定給付企業年金はその法的な成り立ちから加入者の高齢期における所得の確保をミッションとしており、安定的な給付を行うことが重視される。一方で財務会計における重要度から企業制度に内在するリスクについては企業経営・株主の関心事項であり、その運営についても、企業価値の最大化の視点でみられる。仮にこれらの2つの視点を受給権の保護をより重視した「守りの企業年金運営」と、制度からのリターンの最大化・効率化を意識した「攻めの企業年金運営」という二極対立的な構図で見たとき、多くの日本企業の企業年金の運営のスタンスは「守りの企業年金運営」の要素が優勢ではないだろうか。筆者は米国や欧州に本社を置く多国籍企業の年金運営を目にする機会が多いが、政策的アセットミックスや予定利率、掛金の設定方針に顕著な差がみられる。 誤解を恐れずに言えば、米国や欧州の多国籍企業の年金担当者は企業年金を通じて「より安いコストで最大のベネフィットを効率的に提供する」というスタンスがより明確である。その結果、DBにおいては資産運用におけるリスクテイクとマネージャ選定においてより貪欲な姿勢が伺える。これは単純にリスク許容度が高いという意味ではなく、制度の閉鎖・凍結、DC導入、年金バイアウト(日本では実行不可)など各国でとり得るリスク削減案をとった上でのリスク・リターン、コスト構造の最適化である。これは米国や欧州の多国籍企業のガバナンス体制(経営の目が届き易い)が影響しているものと思われる。
守りの企業年金運営 | 攻めの企業年金運営 | |
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目的 | 安定的な給付・受給権の保護 | 退職給付制度の価値の最大化 |
ガバナンス | 人事・財務・基金のいずれかが主導 | 年金委員会等によるマルチステークホルダー運営 |
制度設計 | 既得権への配慮から複雑な制度(多くの経過措置を存置する傾向) | 制度ポリシーの文書化(シンプルな設計・制度統合を重視) |
年金財政 | 安定的な掛金収入を維持(剰余があっても掛金の引き下げには慎重) | 会社のキャッシュフロー計画に照らし、マネジメントが掛金政策の決定に大きく関与 |
資産運用 | 比較的保守的な運用 | リスク許容度に応じた積極運用(オルタナティブの活用含む) |
企業会計 | 企業会計上の要請は比較的小さい | コスト効率性の追求(コスト削減、高い期待運収益率の維持) |
ベンダーマネジメント | 総幹事・資産運用会社の見直しには消極的 | 定期的にベンダーレビューを実施 |
2001年の確定拠出年金(DC)法制定以来、多くの企業が退職給付制度の全部あるいは一部としてDC制度の導入を進めてきた。DC導入により企業の財務的な負担は減ったものの、DC資産の大部分が元本確保型の商品に偏っているなど、設計時に想定した給付を提供できていないケース多く課題も多い。退職給付制度のDC化が進んだ諸外国においては傾向がより顕著であるが、今後の企業の退職給付政策の方向性は、従業員のウェルビーイングやエンプロイー・エクスペリエンス(EX:従業員体験)への配慮の視点から取り組む課題になるであろう。確定拠出年金においては投資教育の実施が既に法令上の要件として組み込まれているが、最近はより広義に従業員のフィナンシャル・ウェルビーイングの向上に力を入れる企業もでてきた。DC移行により企業から従業員へのリスク移転は進んだが、DC化が進んでも退職給付制度の価値向上に資するマネジメントが必要なことに変わりはない。投資に関するリテラシーや老後の資産形成の考え方には世代間のギャップも大きく、従業員のニーズにあった制度の提供と支援体制が必要である。
れは人事制度、福利厚生制度全般に言えることであるが、最近はDE&I(多様性、公正性、包摂性)の視点から諸制度全般の適合性の点検する多国籍企業もでてきた。世界経済フォーラムとWTWが共同で開発した「資産公平性指標」は、女性の生涯における男女間の不公平を総合的にとらえ、退職時の男女間の資産格差を定量化したものである。資産公平性指数によると、世界の女性は退職後、男性の74%しか資産を蓄積していないと予想されおり、女性がキャリアの終盤における資産の蓄積においてかなり不利な状況にあることを裏付けている。
確定拠出年金を運営する企業にとって投資教育は継続的な課題であるが、日本におけるDE&Iの文脈からは世代間のギャップに加え、投資に関するジェンダーギャップの有無も点検項目となるかもしれない。海外人材への配慮も今後ますます重要になるだろう。確定拠出年金は一時金の引き出しに大きな制約があることから、現状、海外人材にとっては親切な制度とは言えないし、そもそも自社の制度について日本語以外でのコミュニケーションが手薄な企業は多い。退職金規定・年金規約、概要資料の英語化など最低限の対応が望まれる。これら課題に対処するために人事部門の役割は大きい。
企業年金運営の複雑性に対処するため、年金委員会など組織横断的な運営体制を敷くこと、またその機能を強化することは一つ解決策になるだろう。人事、財務、法務など多角的視点での運営が必要とされることはもとより、会社ポリシーなどを文書化することで一貫した制度運営が可能となる。退職給付制度の特徴としてその専門性の高さへの対応も必要となる。長年、企業年金に従事した人材は年金のエキスパートとして重宝される面もあるが、逆にそういった人材の急な退職や配置換えにより知識の移転がスムーズに運ばないケースも散見される。こういった観点でも委員会メンバーの教育を含めた持続性の高い制度運営体制の構築が望ましい。そもそもそういった専門人材の採用・育成にリソースを割けない場合は一部業務のアウトソースや外部アドバイザーの活用も検討すべきだろう。退職給付制度の価値向上、費用対効果を考慮したガバナンス体制の構築が望まれる。
リタイアメント部門にて、退職給付制度の設計支援、退職給付会計、年金財政、年金ALMなど退職給付全般のコンサルティング業務に従事。M&A関連では、退職給付制度に関するデューデリジェンス、PMIにおける退職給付制度の再構築支援などを行う。年金数理人。日本アクチュアリー会正会員。国際アクチュアリー会年金会計委員会委員。国際アクチュアリー会年金・ベネフィット社会保障委員会委員。