「弊社にとって従業員が最大の資本です」、「かけがえのない資産である従業員本位の経営を進めていきます」 ― 人的資本開示の流れもあり、経営課題として「人材マネジメント」を明確に打ち出す企業が増えてきた印象があります。しかし、従業員側はどのように感じているのでしょうか。特に欧米のソーシャルメディアでバズワードになった、「Great Resignation<大量自主退職時代>」、「Quiet Quitting<静かな退職>」といった言葉からは、今日の人材市場が主に従業員主導であることが示唆されます。
優秀な人材を獲得し、ポテンシャルを開花させ、幸せなキャリアを歩んでもらうために、昨今注目されているのがEmployee Value Proposition<EVP>、日本語では、「従業員価値提案」と訳されることが多い概念です。欧米企業を中心に導入されていましたが、昨今、日系企業でも人材不足や人的資本経営というキーワードとの関連で関心が高まっているように見受けられます。今回は、このEVPの入門編として大きく3つのポイントを中心にご紹介していきます。
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EVPとは、「会社が従業員に何を提供するのか」を定義するものです。言い換えると、「会社と従業員の等価交換を明確に表現したもの」とも表現できるでしょう。「人を大事にする」といったことを企業理念に掲げることが多い日系企業から見ると、今さら感があるかもしれません。しかし、EVPは単なる理念ではなく、「会社が従業員に対して提供する価値の約束」です。それは何か決められたルールや様式が指定されているものではありませんが、EVPを策定し、社内外にコミュニケーションすることを通じて、従業員の採用・リテンションに効果が期待されます。そのためにも、EVPをベースに従業員に提供できる体験を定義し、それを制度や風土の形で具現化していくことが求められます。
EVPを策定する目的の1つには、「企業が優秀な人材を獲得し、維持し続ける」ことがあげられますが、なぜいまEVPが求められるのかについて簡単に触れさせていただきます。
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昨今、「人手不足によるバス路線の運休」という報道がありましたが、人手不足がビジネスに影響を与える事例も珍しくなくなってきました。少子高齢化が進み、重要な労働の担い手である生産年齢人口は減少の一途をたどっています。全体のパイが少なくなる中で、1.0を超えると売り手市場と言われる有効求人倍率は、2022年度は1.28倍、[1]また、失業率も低水準で推移するなど、人材獲得には厳しい環境といえます。ある意味では人の奪い合いが起きつつある中で、人材獲得は事業継続上不可欠見過ごせないテーマであり、単に幾つかある課題の1つではなく、重要な経営課題と位置づけることが重要であると考えます。そのような中で、会社が従業員に提供する価値を定義し、それに基づいて具体的な従業員体験を設計していくことが、求職者へ訴求する価値となり、「選ばれる企業」になるために重要です。
昨今の「会社が従業員に提供してきたもの」、「従業員が会社に求めるもの」の変容もEVPが求められる背景と思料します。これまで企業は従業員に対して「終身雇用」、或いは成果貢献ではなく「所属の対価(福利厚生等)」を提供してきました。しかしながら、競争環境の激化や財務体力の悪化など、様々な要因もあり多くの日本企業が従来提供できていた「終身雇用」の維持は難しくなっています。また、数年先すら見通すことが難しい中で、時代や状況に合わせて会社は柔軟に対応していく必要があり、その為には同じようなスキルセットを持つ社員を抱えることが難しくなっているといえます。一方で、従業員側からすれば、「終身雇用」が守られなくなった以上、自身を守るために「スキルがつくと思われがちな企業」を選ぶようになり、ある程度の経験を積むことが出来次第、新たな会社に転職していくということは当然といえるでしょう。「すぐ転職してしまう若者」・「期待し始めた矢先にいなくなる中堅」を嘆く声も聞かれますが、それはある意味従業員の生存本能であり、会社が変わる以上、従業員側も変わるという意思表明ともいえます。このような時代において、EVPが果たす役割は大きいのではないでしょうか。会社が「従業員に提供する価値」を明文化し、その価値に共感した社員が集まってくる。EVPは、変わりゆく時代の中で、会社と社員をつなぐものといえるでしょう。
SNSや口コミサイトにアクセスして、興味のある企業の情報を入手することは当たり前になっています。報酬や福利厚生はもちろん、企業風土やワークライフバランスといった、一昔前は直接在籍者や退職者に直接聞かないと知り得なかった情報に当たり前のようにアクセスできています。企業の内面を「隠すことはできない時代」になっているのです。だからこそ、企業側が開示する重要性が高まっているのではないでしょうか。求職者は「入社してみたが、全然実態が違う」といった事態を避けるために情報を求めているといえます。言い換えると、企業がどんな価値や体験が提供してくれるのかをコミュニケーションする重要性を示唆しているといえるでしょう。入社後のミスマッチを避けるためにも、企業が従業員との約束ごととしてEVPを策定し、詳らかにすることが大切であると考えます。
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WTWでは、クライアント企業で働く一人ひとりのエンプロイー・エクスペリエンス(EX:従業員体験)を最大化するという観点でEVPを策定します。
従業員が入社し退社するまでのEXには、実に様々な側面があります。
WTWでは、PURPOSE、PEOPLE、WORK、TOTAL REWARDSの4領域に体系化されたフレームワークに則り、EVPを定義します。 そして、従業員エンゲージメント調査の提供を通じて、EVPを従業員が実際にどのように受け止めているのか、そしてそれが将来的な企業の業績にどのような影響をもたらすのかを測定してきました。
4つの領域には各3つの項目があり、全12の項目で、自社のEXを網羅的に理解することができます。
長年の研究を続けてきた結果、高業績企業のEXには特徴があることが分かってきました。
高業績企業とその他の一般的な企業とでは、下図の上段にある4項目において、特にスコア差が大きく出ており、WTWではこれらを卓越項目と呼んでいます。
どのような企業でも一定のスコアを確保する項目が必須項目、高業績企業と一般的な企業とでスコア差が開き始める項目が強調項目です。必須項目のスコアが高く、卓越項目のスコアが厳しい、というばかりではありません。たとえば、Workにおいて、”発言“(Voice)はそこそこスコアが高いが、組織化された効率的な業務環境である”組織“(Organization)が低い、などもしばしば見受けられます。こうした12象限のそれぞれのスコアを見ることで、自社のEXの現状を把握することができます。
「会社と従業員の等価交換を明確に表現したもの」であるEVPの柱に、どのようなPurposeを感じられるのか、自分が働く目的がこの会社の使命やビジョンでどのように実現されうるのか。そして、そうしたPurposeを持つ組織において、どのような仕事ができるのか。世の中をよりよく変えていける、という実感を持てるならば、それはまさにDriveという経験の提供に成功している、ということになります。そして、そのような仕事の対価として何を得られるのか。公正な報酬はもちろんのこと、そこで自分の力をどのように発揮し、さらには自分自身が気付いていないようなポテンシャルを引き出してくれる、という体験ができたならば、大きな成長実感を得られるでしょう。そして、最後に、どのような人と働けるのか。困ったときにサポートしてくれる、コラボレーションができる、そして信頼感、一体感を持てる。こうしたことが、日々の業務や経験を通じて、企業が従業員に提供可能なEVPです。
既にWTWの従業員エンゲージメント調査をご利用いただいているクライアント企業は、このEXの4領域における自社の「EXの現状」をご理解いただいているため、スムーズにEVP策定に入ることが可能です。
会社の考える自社のEXと、従業員の考える自社のEXが重なり合う部分をいかに大きくしていくのか。これがEVPを考え、その実践を進めるうえでの視点となります。
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上記のようなプロセスを経て実際にEVPを策定していくうえでは、総じて、特に以下のような点に留意し取り組むことが重要になります。
EVPの記述のなかには既に自社で十分に達成されている、変えてはならないと考えられるものもあるでしょう。一方でヒアリングの結果から今後目指していくべき内容として盛り込まれたEVPの内容も想定されます。EVPが従業員の一人ひとりにとって日々の業務において実感できる状態となるために、現状とのギャップを特定し、その是正のためにどのような取り組みを進めていくべきなのか、そのロードマップを明確に示すことが必要です。ここでも、コア・チームを中心とする様々な関係者の声に耳を傾け、すでに取り組んでいることと今後取り組むべきことを切り分け、時間的な優先順位づけをしながら取り組んでいくことが望まれます。
人的資本の開示義務化の流れもあり、昨今「人的資本経営」という言葉を目にすることが増えています。そのストーリーづくりや開示のご支援をする中で、人的資本に関わる取り組みの結果指標として、どのようにエンゲージメントをあげていくべきかというご相談を受ける機会も多くあります。従業員エンゲージメントをあげるためのツールとしてEVPを活用する、というのも一つのアプローチでしょう。会社が向かう方向性をEVPとして明文化することにより、エンゲージメントの重要な要素である、「会社の方向性への理解・共感」に繋がることが期待されます。
EVPはある種のスローガンのように、キャッチーな言葉や表現だけが注目されてしまう恐れもありますが、従業員への約束である以上、実際にその会社で働く一人ひとりがそのEVPを真に実感することが出来なければ、形骸化してしまい、目的を達成することができません。
真に意味あるEVP策定のためには、ともすると日常的に交流のない可能性もある様々な関係者を巻き込み、自社の課題や将来の姿について話し合い、認識を共有することが欠かせません。まさにEVPを策定するプロセスそのものが、自社の現状や目指すべき方向を見つめ直し、協議し、決断していくという点において意味を持つものといえるでしょう。弊社はハード、ソフトの両側面からこうした点について支援させていただいております。
今後、EVP策定の具体的なプロセスについてもご紹介させていただく予定です。併せてお読みいただければ幸いです。
東京大学大学院博士課程在籍中より都内の私立中高一貫校で勤務ののち、現職。従業員コミュニケーションに係るプロジェクトを中心に人事領域のなかでもソフト面のコンサルティング経験を有する。グローバルレベルでのEVPやHRミッションの策定に関する支援、策定後の映像資料制作のディレクションも行う。
素材メーカー、会計系コンサルティングファームを経て現職。人事部門のみならず、人事部門以外に対する幅広いコンサルティング経験を活かし、従業員体験の『測定』・『設計』・『変革』・『伝達』に関する幅広いプロジェクト経験を有する。