役員への株式報酬制度は、既に日本の大企業の9割以上に普及している。さらに、人的資本投資の重要性が叫ばれる昨今では、ソニーグループやルネサスエレクトロニクスなど付与対象を従業員へと拡大する企業も見られるようになってきている。従業員への株式報酬付与にはエンゲージメントの改善、優秀人材のリテンション等様々な効果が期待できるが、最大の意義は、従業員の全社業績や株価に対する意識を高め、貢献意欲を引き出し、企業価値を向上させるという点だろう。
しかし、従業員の株式報酬を期待通りに機能させることは、役員の株式報酬ほど容易ではない。経営上の大きな意思決定を行う役員とは異なり、従業員個人が全社業績に与える影響は必ずしも大きくはないためだ。したがって、導入の際は、効果的な制度設計だけではなく、その効果を増幅させるための土台となる組織作りが重要となる。
本稿では、土台としての組織作りと効果的な制度設計という二つの側面から、従業員の全社業績に対する意識を高め、貢献意欲を引き出し、企業価値向上に繋げるための施策を考える。
前述の通り、株式報酬付与を通して、経営陣は従業員の全社業績に対する意識向上を期待する。しかし、株式報酬を受け取ったからといって突然、従業員が日々業績を上げるために努力し始めるわけではない。各自の業務や所属部署の役割を理解し、それが業績に相応の影響を与えているという実感を得て初めて、業績を意識し貢献するために行動できるようになる。特に若手は日常業務において全社業績への貢献を実感しにくいため、環境作りが大きな意味を持つ。企業は「従業員が自分の貢献を実感し、それを正当に評価されることで更なる貢献意欲を持ち、企業価値向上や自己の成長に対してプロアクティブに働きかける」という自律的組織を目指さなくてはいけない。
自律的組織を作るにあたり、組織人事制度、いわゆるハード面を整えなくてはならない。まずは組織設計時に、全社業績や株価へのより大きなインパクトを与えられる職務が上位職となるよう配置する必要がある。上司が企業価値向上への意識を高く持って行動していれば、貢献を実感しにくい若手もその姿を手本とすることができるためだ。また、公平な評価制度も重要なポイントだ。所属や年齢にかかわらず自律的人材が高く評価され、組織において影響力を持つ上位職に登用される必要がある。自律的人材の評価が高い環境では、若手も自律的な働き方を目指すようになるだろう。他にも、人材の社内流動性を高めるポスティング制度で自律的なキャリア形成を後押しすることや、自律人材の育成のための研修制度を整えることも考えられる。
組織人事制度のようなハード面の整備だけでは対応できない部分もある。全従業員が、社内制度を有効活用し能動的に自律人材を目指すとは限らない。こうした従業員に対してはより直接的に経営陣の意図を伝える必要があり、コミュニケーションすなわちソフト面の施策がカギとなる。
日常業務においては、直属の上司による働きかけの影響が最も大きい。上司が部下に裁量のある仕事を任せ、業務の意義を伝え、業績への貢献という観点から正当に評価すれば、業績への貢献意欲を引き出せる。部下の成長を促すためには、時には厳しいフィードバックも必要だろう。
また新制度導入当初は、対象者と十分なコミュニケーションをとることで制度の効果を増幅できる。従業員株式報酬制度であれば、人事部から制度内容だけでなく導入の意図、すなわち従業員の業績への貢献意欲を引き出し企業価値向上につなげたい旨を、会社の戦略をふまえて伝える必要がある。2022年度から制度を導入した丸井グループも、従業員への説明を重視したようだ。当時の新聞報道によると、付与前のアンケートではネガティブな意見も見られたものの、各店舗を訪ねて導入の目的を説明し、時にはホワイトボードを用いて株式の仕組みから解説した。結果として社員意識に変化があったと言う。導入時だけでなく、継続的に経営陣の意図と従業員の意識のすり合わせを行うことも大きな意義があるだろう。
制度設計においては、各社が組織や戦略、現時点の業績を鑑みて最も効果的な仕組みを作ることが望ましい。必ずしも役員と同じ制度が有効とは限らない。実際に従業員に株式報酬を付与している企業においては、大まかな仕組みは役員と同じものを登用する一方で、詳細設計における論点(設定するKPI、権利確定時期、ボリューム)は従業員向けにカスタマイズしている事例が散見される。
一つ目の論点はKPIの設定である。従業員が株価に与える影響が相対的に小さい以上、単純に等級や役職に応じて株式報酬を付与するだけでは役員ほどのインセンティブ効果は見込めない。この点において組織作りが肝要であるのは前述した通りだが、制度設計時に工夫をすることもできる。現状、業績条件を付けるプランは少数派であるものの、より各従業員が貢献を実感しやすい指標をKPIとして設定し、インセンティブ効果の増幅を狙っても良いだろう。例えば部門業績や非財務指標であれば非管理職も身近に感じるかもしれない。賞与における人事考課を株式報酬の評価に反映する事例もある。また、比較的影響力の大きい上位層のみにKPIを設定することも考えられる。
次に二つ目の論点である権利確定時期に関し、例えば3-5年程度のそう遠くない将来に現金化が出来るのであれば、貰い手は報酬を受け取っているという実感を得やすい。これまで現金報酬のみを受け取ってきた従業員にとって、株式報酬はあまり馴染みのない存在であり、現金化を意識させることはインセンティブとしての実感を得る上で効果的と言える。また遠くない将来現金を受け取れるという期待により、権利確定までの期間の株価意識の向上やリテンション効果も見込めるだろう。
最後に付与ボリュームについて、労基法上の賃金通貨払いの原則より、現金給与が主たる報酬となるよう設計し現状の給与に追加的に付与しなくてはならない。まずこの原則に抵触しないよう、同業種における平均賃金等の客観的なデータに基づいた合理的な根拠を用いてボリュームを決定することが必要だ。付与ボリュームが多ければ報酬総額が増えるためエンゲージメント向上が見込めるが、企業の負担は増加する。また希薄化の観点からも無制限にボリュームを増やせるわけではないため、対象範囲を広範囲とすれば一人当たりの付与数が減り、範囲を限定すれば付与数は増やせるものの非対象者が出る。広範囲を対象とする場合、少ない株数を毎期付与する方法の他に、数年に一度の付与とする方法や入社時に一律付与する方法もある。他方で、現実的には対象者を限定する事例が主流であり、中でも将来の役員候補である上位層のみを対象とする企業が多い。上位層は比較的全社業績への影響力も大きく、インセンティブ効果を引き出しやすい。また、役員候補であるという自覚を促すこともモチベーション向上につながるだろう。階層による対象者の限定ではなく、スポット付与とすることでも全体のボリュームを抑えられる。例えば、成果を上げた人材をピックアップして報いる、レコグニションとしての付与である。効果を継続させるためには定期的な付与が望ましいが、優秀な人材に対して、能力が評価されている実感を与えるという意味では有効だ。優秀な人材ほど能力を活かし企業や社会に大きな影響を与えたいと考える傾向にあり、株式報酬制度との相性は良いと言える。
従業員に株式報酬を付与する企業は増加傾向にある。しかし、他社の動向をみて単に模倣するだけでは制度は機能しない。土台となる自律的組織を整備し、そこにフィットする制度を作り上げることが重要だ。
従業員は未来の経営陣である。株式報酬の付与を通して従業員の意識や組織カルチャーに変化を促すことは、次世代幹部の育成にもつながる。長期的な目線で見ても、会社を強化するための一歩と言えるだろう。