環境、社会、ガバナンス: かつては一部の投資家のみが注目していたESGは、今や全ての投資家にとって主流テーマとなり、投資家のみならず、取締役会、株主、顧客、メディアにとって重要な考慮事項となっています。多くの投資家がESGに関する開示の透明性と、気候、社会的意義、持続可能性、コーポレート・ガバナンスのプロセス全体の監査に対する要求をますます強める昨今、特にM&Aの買主はよりESGに重点を置いたデューデリジェンスに取り組まなければなりません。
従って、表明保証保険(以下「W&I」という)を引き受ける保険会社も、各国政府や政府関連諸機関が制定を進めているESGに関連する法規制やソフト・ローの要件の拡大と対象会社のコンプライアンスに関する表明保証を重要視する傾向が強まっています。 多くのW&I引受保険会社は、化石燃料関連事業を対象とするM&A案件のW&I引受に以前より消極的になってきています。 特に石油精製や石炭採掘等の上流事業や他の炭素排出型重工業は、保険会社の監視対象となり、近い将来この分野でのM&Aに対するW&Iの引受キャパシティ不足が懸念されます。
地政学的影響 :2022 年以降の全世界的な地政学リスクの高まりにより、クロスボーダーM&Aの買主は、予測困難な地政学リスクに晒される事を回避する為、OECD諸国への投資に偏向する可能性があります。特に地政学リスクの長期化傾向が顕著な東ヨーロッパへの海外投資はエグジット策がメインであり、今後暫くは新規M&A対象地域とはなりにくい状況です。一方、中国による海洋進出の高まりは顕著なものの、特に日系企業において、南シナ海周辺国への海外投資はブルーフィールドとブラウンフィールドの区別なく増加傾向が見られます。
これらの国々や地域での地政学リスクの高まり自体がW&I引受に悪影響を及ぼすことは考えにくいものの、海外投資に際する新たなリスクとして十分なリスクデューデリジェンスを実施する必要性が高まっています。この事は今後、国家間の*フレンド・ショアリングが、M&A対象事業の地域選定にこれまで以上に影響を及ぼす可能性を示唆しています。(*フレンド・ショアリングとは、ある国が同盟国や友好国など近しい関係にある国に限定したサプライチェーンを構築することを意味する。)
「リップスティック効果*」の復活?: 前記の地政学リスクの高まりと世界的な気景気後退を背景に、2022年下半期は高額なターゲット企業に対するM&Aが敬遠され、小規模で手頃な価格の企業を対象としたM&Aが増加する、一種の「リップスティック効果」が見られました。
WTWがロンドン市立大学ベイズビジネススクールのM&A研究センターと提携して作成した、ディールパフォーマンスモニターでは、2022年第3四半期は、2019年にモニタリングを開始以来初めてメガディール(企業価値100億ドル以上)が成立しなかった四半期となり、また、企業価値10億ドル以上の大型ディール数も、2021年の同時期のディール数の67件に対して49件と大幅に減少しました。この傾向は 2023 年上半期も継続していました。
(*リップスティック効果とは、不景気な時代には口紅が良く売れるという消費者傾向で、景気後退の際に逆に需要が増すような経済的効果を指す。)
ディストレスM&Aへの増加: 新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の拡散によるサプライチェーンの混乱が長引く中、M&A取引では依然として買収対象企業の経営回復力(レジリエンス)が重要なデューデリジェンス事項となっています。 COVID-19に対する脆弱性と回復力は、最も深刻な影響を受けた国際旅客事業を含むレジャー事業や、外食産業とアパレルを含む一般消費財の販売セクターにおいて引き続き重要な経営課題となっており、これらの産業では販売チャネルとサプライチェーンの根本的見直しを迫られています。
従って、これらの産業においては2024年以降も、経営戦略の変更によるカーブアウトやスピンオフを志向するM&Aの増加が予想されます。また、これらの案件には資金調達が困難な対象企業や過大な負債を抱えた対象企業も含まれる事から、特に小売やレジャーなどのセクターで見られるディストレス案件のW&I引受が保険会社にとっての重要な課題となっています。
守りから攻めへ転じるテクノロジーM&A:デジタルトランスフォーメーション(DX)対応へのスピードアップは、今やあらゆる業界で緊急課題として認識され、AIやIoTを中心にテクノロジーM&Aは今後もディールメイキングの中核をなすものと予想されます。 DXのみならずテクノロジーM&AのW&I引受において特に重視されるのが、知的財産権(IP)と重要な契約に関する表明保証ですので、人事関連と共にIPと重要契約に関する詳細デューデリジェンスは必須といえるでしょう。特に新しいテクノロジーや新たな市場に参入する事を目的としたM&Aでは、買主にとっても不確実性が高いだけでなく、クリーンエグジットを強く望む買主によるディールも多い為、テクノロジーM&Aは引き続き最も W&I活用率の最も高い事業セクターといえます。
財務・会計、企業価値評価及びマルチプル :W&I 保険会社は対象企業の企業価値評価(Valuation)にも引き続き注力しています。 一部の引受保険会社は、財務デューデリジェンス報告書をフォレンジック(法科学・法医学)的に調査する為、企業財務を担当した実績を有する専門家を採用しています。 特に財務・会計関連表明保証違反の補償額が、損失に一定乗数(マルチプル)を乗じて算出される際、保険会社は支払保険金の高額化を懸念することから、買主のValuationに関するデューデリジェンスも精査します。 引受保険会社がValuation方法と結果をより深く理解することは、保険会社が買主にとって付加価値の高いデューデリジェンス分野を判断する上でも有効で、より効率的な引受審査を可能にします。
COVID-19:新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の影響は引受業務において、特に一時帰休制度の歴史的な利用に関連して、欧州域内ディールでは引き続き議論の的となっています。 また、移動制限によって深刻な打撃を受けたレジャーや外食業界へのW&I引受審査の際にも重視されてきました。しかし、ウイルスが風土病となり、脅威が減少するにつれて、COVID-19の影響は従来ほど重視されなくなっています。 その結果、欧州域のディールでは従来免責だった新型コロナウイルス感染症に起因・関連する表明保証違反は免責ではなくなり、依然として新型コロナウイルス感染症問題に取り組んでいる中国の対象事業のみ例外となっています。
サイバー :対象事業がサイバーリスクにさらされる可能性がある場合は、W&I 引受審査にとってサイバーリスクは依然として重要な焦点分野です。 このような場合、保険会社は通常、対象のサイバーセキュリティに関する取り決めに関する詳細なデューデリジェンスを要求します。 十分なサイバーリスクに関するデューデリジェンスが実施された場合でも、保険会社は適切なサイバー保険が手当てされている場合のみ、W&Iの対象とすることに前向きで、その際もサイバー保険の補償額を超過した場合のみW&Iの補償対象となります。
欧州案件では2023年の平均値として、約500件のW&I 契約中およそ 20%の案件で事故通知を受け、そのうち8件に1件⇒保険契約全体の2.5%(13件)において実際に保険金が支払われました。
租税債務の表明保証違反が通知数・支払数とも最も多く、1件当たりの平均通知額と支払保険金額は高額なのは財務・会計の表明保証違反でした。
保険契約から事故通知までの平均所要平均日数は、最短の「法律の遵守/法的紛争」で220 日、最長の「税金および財務諸表/会計」の400 日と大きく乖離しました。
ケーススタディ1 - テレコム対象M&Aの財務・会計表明保証違反とIP第三者賠償請求:
対象会社による政府管掌の電気通信基金への納付金額について、サイニング前に過少申告があった為、クロージング後に電気通信基金からの追加徴収が発生し、当期純利益が下方修正された。SPA中の「対象会社の財務状況が公正に表示されている」という財務・会計表明保証条項違反として、事前合意のマルチプル規定に従い、本来売主が買主被保険者に支払うべき利益差額の4.8倍の全額がW&Iで補償された。また、対象会社はSNS関連サービスで第三者争訟中であり、IP関連の表明保証違反として訴訟費用500,000 米ドル相当額が別途支払われた。このW&Iは当社が IP/特許販売事業向けに引受保険会社と交渉した独創的でユニークな W&I ソリューションだった。
ケーススタディ 2 - ヘルスケア対象M&Aの顧客からのコンプライアンス違反申し立て:
対象会社の顧客が、クロージング後に対象会社が顧客との間の医療履歴に関する個人情報管理義務に違反していると主張した。 引受保険会社は、ディスクロージャーにより当該顧客からの最初のクレームレターを認識していたものの、追加デューデリジェンスの実施により、SPAのコンプライアンス違反に該当しないと判断し、W&Iの免責としなかった。この顧客は買主被保険者に対して訴訟を提起し、最終的には和解したものの、買主被保険者に争訟費用と和解費用の負担が生じた。W&Iにおいては通常免責のディスクローズ済み事実を補償範囲とした為、その争訟費用と和解費用の一部がW&I保険金で支払われた。
ケーススタディ 3 - IT対象M&Aの財務・会計表明保証違反:
クロージング後に対象会社のソフトウエア開発事業部門が収益を水増ししていたことが判明し、買主被保険者が保険金請求に至る可能性のある事案として保険会社へ通知した。その後の保険会社による損害調査で対象会社の販売・メンテナンスする会計システムに問題があり、収益の大幅な悪化をもたらしたことが判明した。 対象会社の購入価格がEBITDAの倍数に基づいて決定されていた為、その差額を損失として保険会社へ請求したものの、保険会社は収益の減損はサイニング時に知り得たとして当初免責を主張した。 その後当社のフォレンジックチーム(法医学会計士)が被保険者よりアサインされ、保険会社との協議を経て、W&I支払限度額の75%を保険会社が支払うことで合意に達した。